気軽に、本格的に。将棋に親しめる「えんだい将棋教室・クラブ」

「最高の頭脳ゲーム」「盤上の格闘技」等々と評されてきた将棋は、 子供から大人まで、初心者から高段者まで 誰もが楽しめる奥深い日本文化です。 NPO法人えんだいでは、 初心者から有段者まで学べる子供向け将棋教室と 60歳以上を対象とした将棋クラブを揃え、 将棋を通した地域社会への貢献をこれからも続けて参ります。

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ブログ一覧

2024年 えんだい将棋教室

2024年、1月7日から活動開始
数年ぶりに恒例の”指し初め式”から活動を年始から通常通りに教室を始められました

西村一義九段を中心に子供たちとの記念写真です

1月7日の教室に参加した生徒たち

西村九段との指導対局の様子

えんだい将棋教室指導員との指導対局

えんだい将棋教室

2023年5月
やっとコロナの制限が緩和されました
教室も元の体制に頑張って戻していきたいです
壊れていたホームページもやっと直りましたので
これからはどんどんブログも更新していけるように
皆さんいろんな大会にどんどん出て報告を載せられるように
頑張って下さい

入賞者は役員に連絡をしてください

 

久しぶりの対面将棋教室。

コロナの影響により、えんだい将棋教室はWEBビデオ会議と将棋ソフトを利用した

オンライン形式にて行ってまいりましたが、今回、対面での教室を試験的に実施しました。

(約7か月ぶり!)

①マスクの着用、②手、将棋盤、駒の消毒、③ディスタンス確保、④参加人数の制限

など、しっかり守ったうえでの試験的な開催であり、課題を確認しながらの運営となりました。

 

最近のコロナの収束状況を鑑みると、以前のように対面での開催を本格的に再開することは

まだ難しい状況ではありますが、仲間と直接向き合いながら指す将棋は別格のようで、

皆の喜ぶ姿が見れて何よりでした。早くコロナが収束して以前の状況に戻ることを祈るばかりです。

 

ポーと秀雄とAIと :将棋ママMの世迷い草

先日ある本を探して書棚を眺めていたところ小林秀雄の「考えるヒント」が目についた。小林といえば教科書に載る位の日本に冠たる大思想家であり、私も何冊も読んできた、と言いたいところだがこの本の内容自体、どころか買ったこと自体全く記憶にない。本を繰ってみると最初の章「常識」に将棋の文字が散見される。頁の上を蠢く紙魚を潰して読み進めると、学生時代、小林はエドガー・アラン・ポーの作品を翻訳して探偵小説専門の雑誌に売ったことがあるという。「メールツェルの将棋差し」、題名はそうだが原文は間違いなくチェスであろう。この「常識」の文が雑誌「文藝春秋」に掲載されたのは昭和34年、1959年のことであり、更にポーの作品を訳したのはそれより30年以上前のことであるから、時代背景としてチェスは大衆に馴染みがない、将棋と意訳しても誰咎める訳でもなしという若き小林の判断だろう。内容としては、ハンガリーのある男が発明した自動将棋指し人形は連戦連勝で興行のたびに喝采を浴びる。人形は所有者を転々とした後メールツェルという人物の所有となる。ある時メールツェルの人形の公開を見物したポーがその人形の秘密を看破するというものである。小説ではなく一種のルポルタージュである。

ポーの推論としては、凡そ機械である以上は、数学的な既知事項の帰結は避けられず、将棋のような、一手一手の新たな判断に基づく展開、つまり演算とは離れたところで為される偶発的な進行は、機械仕掛けと考えるわけにはいかない、よって人間が中に隠れているという主張で話が進む。

この自動将棋指し人形が発明されたのは18世紀中頃、ポーがこの作品を書いたのも19世紀前半であったので、コンピュータとは無縁の世界、機械と言えば時計くらいが精密の粋であり、対局の進捗への柔軟な対応、つまり機械に新たな判断を委ねるという発想自体有り得ず、よってこの謎めいた作品が成立した訳である。

20世紀の人小林はといえば、東大の原子核研究所に「電子頭脳」があって、それが将棋を指すというので友人らと見物に行ったという話を展開している。1950年代に日本に電子頭脳があったこと自体驚きだが、もちろんそのレベルはわからない。今の人工知能、AIの印象でこちらは捉えてしまうが、コンピュータの先駆け程度の、大量の演算を比較的短時間でこなすという位かもしれない。実際、東大の研究所で手合わせを申し出たところ、所長に「うちは将棋の研究はやっておりません」と言われて大笑いになったという。けれども「私達に、所長さんと一緒に笑う資格があったかどうか」と小林は振り返る。「ポーの昔話を一笑に附する事は、出来そうもないようである」そう綴る小林秀雄の洞察を、21世紀の文明は決して笑えまい。

”ポーの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考えた。”

メールツェルの人形が発明されたのは、ラ・メトリの「人間機械論」が書かれて間もなくの事とされている。ラ・メトリは無神論の立場を明確に主張したフランス唯物論者であり、「人形の興行の大成功は、十八世紀の唯物論の勝利と無関係だったはずはあるまい」と小林は述べる。ポーが熱心な宗教家であったかどうかは判らないが、神の不在というよりも、精神の否定を突き付けられたポーが、作家としての矜持を賭けて、この唯物論の落とし子である自動人形の欺瞞を暴こうと欲したことは、小林秀雄本人が一番良く理解していた点であろう。

”機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。”

10の220乗通りあると言われる将棋の手の組み合わせは、小林の時代はおろか現代の人工知能技術を以ってしても全てを探索しきることは出来ない。なので将棋やチェスなどのゲーム攻略の基本的な設計として、盤面を評価するスコアを作り、そのスコアが良くなるように、次の指し手を探索するという仕組みが考えられた。「判断」という人間の精神的な活動を、「探索」という極めて機械的な処理に置き換え、自分の手の最大化・相手の手の最小化を基本として最善手を決めるミニマックス法という探索技術により、1997年にはチェス界で、2012年には将棋界でコンピュータが人間に初勝利を収めている。その後のビッグデータと機械学習による人工知能の進化はもはや留まるところを知らない。

「判断」とはいったい何だろう?「手を読む」とは? 小林の時代であったら人間の精神活動の領域であり得たこれらは、今やアルゴリズムの探索の結果であり、いくら熟考を重ねて渾身の一手を指したとしても、コンピュータソフトの評価値が低いのであれば、傍観する側は納得はしない。「機械は為すところを知るまい」というのは完全に昔話となり、今や将棋の技術の向上のためソフトを用いる棋士は数多くいる。メールツェルの将棋差しの大いなる復権のように思われるが、将棋ソフト同士が対戦している「フラッドゲート」というサイトをトッププロが見ても、大変に強くはあるが、美しい将棋ではないという。「美しい」という、人間の主観が捉えるさまは、勝ち負けの本質には直結しない。けれども人工知能の将棋と人間の将棋を隔てる一理の筋として「美しさ」は必要なのではあるまいか。

”将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現わしている。”

将棋を単なる勝ち負けの遊戯と見た時、完全により近いのは今や機械の側にある。スペックによっては1秒間に数億手も読むのである。人間は己の身体性から抜け出すことは出来ないから、例えば閃光のように飛ぶロケットを本気で追いかけようとは思わない。

けれども、熟慮、断行、機転、着想、煩悶、それら全てを含めて将棋なのである。先人達が脈々と築いた400年の歴史を、今日も盤上の一手一手で紡いで何が正しさに近いのかを必死で探る。熟考の末の一手が敗着となり、苦杯を仰ぐこともある。判断として失敗だったのである。それでも、負けた者が再び真摯に盤に向かう姿は間違いなく美しい。メールツェルの将棋差しの連戦連勝が止まり、勝率が100%から落ちてしまえば観客の心は離れてしまう。機械として不十分だからである。そして人間の手は最初から不十分である。天文学的なアルゴリズム探索の裏付けがあるわけではない。けれども型を学び、型を練り、新たな手の可能性を夢見て敵玉に挑む時、人間だけに許された精神の高揚が確かにそこにある。手として、読みとして、不確定で不十分かもしれないが、その人間的な不完全性に共鳴をするのもまた人間なのである。


王将 ~序章として~ :将棋ママMの世迷い草

「王将」という歌をご存じだろうか。将棋教室に通う年代の子供は知るべくもないであろうが
ある程度以上の大人には、言わずと知れた昭和の名曲である。
村田英雄が紋付袴を着て朗々と歌う姿が目に浮かぶが、
清水アキラが「ムラタだ!」とふんぞり返る姿の方が馴染み深いのは私だけではないだろう。
1961年当時で150万枚売れたメガヒットであるから、様々な歌手によってコピーされている。
男装の美空ひばりが、「柔」の時とほぼ変わらない外またで歌う姿が頭をよぎるが
村田英雄の王将の方がやはり数段良いように思う。質の問題ではない。
見る側の意識として、装われた性の中に必要以上の説得力や様式美を求めてしまうからである。
それは歌舞伎の女形にしても宝塚の男役にしても同じである。
様式美を鑑賞する舞台であればそれは良い、
女形や男役の理想形=フィクションは自然のジェンダーの中には無いからである。
一方で、男の道を男が歌った後を女がいくら歌い上げてみたところで、説得力に欠けるのは目に見えている。


 吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
 賭けた命を 笑わば笑え
 うまれ浪花の 八百八橋
 月も知ってる 俺らの意気地


将棋の駒が、吹けば飛ぶような我が身のメタファーであることは言うまでもない。
時は高度経済成長期、誰もが馬車馬となって日本の経済活動の歯車の一部と化した。
GDP10%以上という、今では信じられないような数字の根底には
高揚を冷ますような虚無の風がいつでも誰にでも吹いていたのである。
王将のヒットは最初の一行で確約されたものといえる。


 あの手この手の 思案を胸に
 やぶれ長屋で 今年も暮れた
 愚痴も言わずに 女房の小春
 つくる笑顔が いじらしい


これも駒のメタファーと同じで、
あの手この手が悉くやぶれかぶれみたいになってしまうのは
人生の随所で誰もが経験する。
そこで愚痴を決して言わない女性が登場してくる。
歌に限らず男性の作品にはこの手の女性が非常に多く描かれている。
永井荷風「墨東奇譚」、川端康成「雪国」、
時代背景的には理解できなくもないが現代では女性はもうちょっと物を言う。
もうちょっと物を言う現代女性は西村賢太作品において徹底的に罵倒される。
物言わぬ女性の類型として、
ロシアのドストエフスキー「罪と罰」のソーニャも典型であるが
アメリカのブコウスキー「町で一番の美女」のキャス、
イタリア映画フェリーニ「道」のジェルソミーナに至っては文句を言えない人物設定になっている。
男性の作品においては、お母ちゃんとさくら以外は小言を言えないことになっている。


 明日は東京へ 出て行くからは
 なにがなんでも 勝たねばならぬ
 空に灯がつく 通天閣に
 俺の闘志が また燃える


西條八十氏の哲学と関沢新一氏の哲学は正反対である。
勝つと思うな思えば負けよ、柔で関沢氏はそう謳う。
だがどちらもまた真なりというのは将棋を指す人間であれば誰もが思うところではなかろうか。
勝たんと打つべからず、負けじと打つべきなり、
兼好法師もそう悟ってというより願って綴ったに違いない。
理性と欲、この場合は後者が勝って、通天閣に自分の心象風景を見る。
千駄ヶ谷将棋会館からの帰りは、銀杏並木の向こうにドコモビルのライトアップを望む。
ピンク、ブルー、白、オレンジ、何の意味を含んでか電光の色は時折変わる。
緑、紫、赤、水色、今日の対局が人工的な色を帯びて夜空に映る。
それを美しいと、安らかな気持ちで仰ぎ見たことは今日まで一度もない。