王将 ~序章として~ :将棋ママMの世迷い草

「王将」という歌をご存じだろうか。将棋教室に通う年代の子供は知るべくもないであろうが
ある程度以上の大人には、言わずと知れた昭和の名曲である。
村田英雄が紋付袴を着て朗々と歌う姿が目に浮かぶが、
清水アキラが「ムラタだ!」とふんぞり返る姿の方が馴染み深いのは私だけではないだろう。
1961年当時で150万枚売れたメガヒットであるから、様々な歌手によってコピーされている。
男装の美空ひばりが、「柔」の時とほぼ変わらない外またで歌う姿が頭をよぎるが
村田英雄の王将の方がやはり数段良いように思う。質の問題ではない。
見る側の意識として、装われた性の中に必要以上の説得力や様式美を求めてしまうからである。
それは歌舞伎の女形にしても宝塚の男役にしても同じである。
様式美を鑑賞する舞台であればそれは良い、
女形や男役の理想形=フィクションは自然のジェンダーの中には無いからである。
一方で、男の道を男が歌った後を女がいくら歌い上げてみたところで、説得力に欠けるのは目に見えている。


 吹けば飛ぶよな 将棋の駒に
 賭けた命を 笑わば笑え
 うまれ浪花の 八百八橋
 月も知ってる 俺らの意気地


将棋の駒が、吹けば飛ぶような我が身のメタファーであることは言うまでもない。
時は高度経済成長期、誰もが馬車馬となって日本の経済活動の歯車の一部と化した。
GDP10%以上という、今では信じられないような数字の根底には
高揚を冷ますような虚無の風がいつでも誰にでも吹いていたのである。
王将のヒットは最初の一行で確約されたものといえる。


 あの手この手の 思案を胸に
 やぶれ長屋で 今年も暮れた
 愚痴も言わずに 女房の小春
 つくる笑顔が いじらしい


これも駒のメタファーと同じで、
あの手この手が悉くやぶれかぶれみたいになってしまうのは
人生の随所で誰もが経験する。
そこで愚痴を決して言わない女性が登場してくる。
歌に限らず男性の作品にはこの手の女性が非常に多く描かれている。
永井荷風「墨東奇譚」、川端康成「雪国」、
時代背景的には理解できなくもないが現代では女性はもうちょっと物を言う。
もうちょっと物を言う現代女性は西村賢太作品において徹底的に罵倒される。
物言わぬ女性の類型として、
ロシアのドストエフスキー「罪と罰」のソーニャも典型であるが
アメリカのブコウスキー「町で一番の美女」のキャス、
イタリア映画フェリーニ「道」のジェルソミーナに至っては文句を言えない人物設定になっている。
男性の作品においては、お母ちゃんとさくら以外は小言を言えないことになっている。


 明日は東京へ 出て行くからは
 なにがなんでも 勝たねばならぬ
 空に灯がつく 通天閣に
 俺の闘志が また燃える


西條八十氏の哲学と関沢新一氏の哲学は正反対である。
勝つと思うな思えば負けよ、柔で関沢氏はそう謳う。
だがどちらもまた真なりというのは将棋を指す人間であれば誰もが思うところではなかろうか。
勝たんと打つべからず、負けじと打つべきなり、
兼好法師もそう悟ってというより願って綴ったに違いない。
理性と欲、この場合は後者が勝って、通天閣に自分の心象風景を見る。
千駄ヶ谷将棋会館からの帰りは、銀杏並木の向こうにドコモビルのライトアップを望む。
ピンク、ブルー、白、オレンジ、何の意味を含んでか電光の色は時折変わる。
緑、紫、赤、水色、今日の対局が人工的な色を帯びて夜空に映る。
それを美しいと、安らかな気持ちで仰ぎ見たことは今日まで一度もない。