ポーと秀雄とAIと :将棋ママMの世迷い草

先日ある本を探して書棚を眺めていたところ小林秀雄の「考えるヒント」が目についた。小林といえば教科書に載る位の日本に冠たる大思想家であり、私も何冊も読んできた、と言いたいところだがこの本の内容自体、どころか買ったこと自体全く記憶にない。本を繰ってみると最初の章「常識」に将棋の文字が散見される。頁の上を蠢く紙魚を潰して読み進めると、学生時代、小林はエドガー・アラン・ポーの作品を翻訳して探偵小説専門の雑誌に売ったことがあるという。「メールツェルの将棋差し」、題名はそうだが原文は間違いなくチェスであろう。この「常識」の文が雑誌「文藝春秋」に掲載されたのは昭和34年、1959年のことであり、更にポーの作品を訳したのはそれより30年以上前のことであるから、時代背景としてチェスは大衆に馴染みがない、将棋と意訳しても誰咎める訳でもなしという若き小林の判断だろう。内容としては、ハンガリーのある男が発明した自動将棋指し人形は連戦連勝で興行のたびに喝采を浴びる。人形は所有者を転々とした後メールツェルという人物の所有となる。ある時メールツェルの人形の公開を見物したポーがその人形の秘密を看破するというものである。小説ではなく一種のルポルタージュである。

ポーの推論としては、凡そ機械である以上は、数学的な既知事項の帰結は避けられず、将棋のような、一手一手の新たな判断に基づく展開、つまり演算とは離れたところで為される偶発的な進行は、機械仕掛けと考えるわけにはいかない、よって人間が中に隠れているという主張で話が進む。

この自動将棋指し人形が発明されたのは18世紀中頃、ポーがこの作品を書いたのも19世紀前半であったので、コンピュータとは無縁の世界、機械と言えば時計くらいが精密の粋であり、対局の進捗への柔軟な対応、つまり機械に新たな判断を委ねるという発想自体有り得ず、よってこの謎めいた作品が成立した訳である。

20世紀の人小林はといえば、東大の原子核研究所に「電子頭脳」があって、それが将棋を指すというので友人らと見物に行ったという話を展開している。1950年代に日本に電子頭脳があったこと自体驚きだが、もちろんそのレベルはわからない。今の人工知能、AIの印象でこちらは捉えてしまうが、コンピュータの先駆け程度の、大量の演算を比較的短時間でこなすという位かもしれない。実際、東大の研究所で手合わせを申し出たところ、所長に「うちは将棋の研究はやっておりません」と言われて大笑いになったという。けれども「私達に、所長さんと一緒に笑う資格があったかどうか」と小林は振り返る。「ポーの昔話を一笑に附する事は、出来そうもないようである」そう綴る小林秀雄の洞察を、21世紀の文明は決して笑えまい。

”ポーの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考えた。”

メールツェルの人形が発明されたのは、ラ・メトリの「人間機械論」が書かれて間もなくの事とされている。ラ・メトリは無神論の立場を明確に主張したフランス唯物論者であり、「人形の興行の大成功は、十八世紀の唯物論の勝利と無関係だったはずはあるまい」と小林は述べる。ポーが熱心な宗教家であったかどうかは判らないが、神の不在というよりも、精神の否定を突き付けられたポーが、作家としての矜持を賭けて、この唯物論の落とし子である自動人形の欺瞞を暴こうと欲したことは、小林秀雄本人が一番良く理解していた点であろう。

”機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。”

10の220乗通りあると言われる将棋の手の組み合わせは、小林の時代はおろか現代の人工知能技術を以ってしても全てを探索しきることは出来ない。なので将棋やチェスなどのゲーム攻略の基本的な設計として、盤面を評価するスコアを作り、そのスコアが良くなるように、次の指し手を探索するという仕組みが考えられた。「判断」という人間の精神的な活動を、「探索」という極めて機械的な処理に置き換え、自分の手の最大化・相手の手の最小化を基本として最善手を決めるミニマックス法という探索技術により、1997年にはチェス界で、2012年には将棋界でコンピュータが人間に初勝利を収めている。その後のビッグデータと機械学習による人工知能の進化はもはや留まるところを知らない。

「判断」とはいったい何だろう?「手を読む」とは? 小林の時代であったら人間の精神活動の領域であり得たこれらは、今やアルゴリズムの探索の結果であり、いくら熟考を重ねて渾身の一手を指したとしても、コンピュータソフトの評価値が低いのであれば、傍観する側は納得はしない。「機械は為すところを知るまい」というのは完全に昔話となり、今や将棋の技術の向上のためソフトを用いる棋士は数多くいる。メールツェルの将棋差しの大いなる復権のように思われるが、将棋ソフト同士が対戦している「フラッドゲート」というサイトをトッププロが見ても、大変に強くはあるが、美しい将棋ではないという。「美しい」という、人間の主観が捉えるさまは、勝ち負けの本質には直結しない。けれども人工知能の将棋と人間の将棋を隔てる一理の筋として「美しさ」は必要なのではあるまいか。

”将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現わしている。”

将棋を単なる勝ち負けの遊戯と見た時、完全により近いのは今や機械の側にある。スペックによっては1秒間に数億手も読むのである。人間は己の身体性から抜け出すことは出来ないから、例えば閃光のように飛ぶロケットを本気で追いかけようとは思わない。

けれども、熟慮、断行、機転、着想、煩悶、それら全てを含めて将棋なのである。先人達が脈々と築いた400年の歴史を、今日も盤上の一手一手で紡いで何が正しさに近いのかを必死で探る。熟考の末の一手が敗着となり、苦杯を仰ぐこともある。判断として失敗だったのである。それでも、負けた者が再び真摯に盤に向かう姿は間違いなく美しい。メールツェルの将棋差しの連戦連勝が止まり、勝率が100%から落ちてしまえば観客の心は離れてしまう。機械として不十分だからである。そして人間の手は最初から不十分である。天文学的なアルゴリズム探索の裏付けがあるわけではない。けれども型を学び、型を練り、新たな手の可能性を夢見て敵玉に挑む時、人間だけに許された精神の高揚が確かにそこにある。手として、読みとして、不確定で不十分かもしれないが、その人間的な不完全性に共鳴をするのもまた人間なのである。


ポーと秀雄とAIと :将棋ママMの世迷い草」への2件のフィードバック

  1. 秀雄の「考えるヒント」ですか…受験時代か学生のときに読んだ気がします!難しい本ですよね確か…
    将棋のことが書いてある章があるのですね!学生時代はまったく将棋に興味がなかったので覚えてないです。趣味として将棋をしていると昔読んだ本や映画なども新たな発見ができ、趣味は大事ですね!!
    AIが発達した現在、人間味のある発想力で将棋が指せるようがんばりたいですね!!

  2. 考えるヒントですか、受験期か大学時代に読んだ気がしますが覚えてないですね・・・難しい本ですよね。将棋のことが書いてあるのですか、当時は将棋にあまり関心が無かったので記憶にもまったく残ってないです。将棋という趣味ができたことで、昔読んだ本や見た映画・テレビでも将棋をとおして新たな発見ができるかもしれませんね。趣味は大切だと思います。
    AIが発達した現在、人間味のある発想力で楽しい将棋を指していきたいですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です